オープンハウスをした昨日は、吉備教会の信徒さんと大事なことを語り合う日でもありました。
そんな中で、「牧師は友になりえるのか」という問いかけがありました。
牧師は権威をまとうことなく、信徒と同じ地平で「友」でいるのが好ましい、という意見もあれば、親分を好む日本社会では牧師はある程度の権威を持つくらいのポジションにならざるを得ない、という見方。
こんな話を牧師を交えて出来るのって、楽しいですね。
そんな中で特に興味深かったのは、「牧師とは親友になってはいけない」というフレーズです。それは、ある程度以上の人数になった教会では牧師は物理的に皆とゆったりとした時間を持つことができなくなります。牧師と親友になることは、牧師がさらに新しい人へ伝道することを妨げることになる、という内容でした。
深い洞察だな、と思ったことでしたよ。
そして、私はそんな話をする中で、なぜ自分が前任地を離れようと思ったか、という理由に気づきました。まさに、上記の理由だったのです。私はこれ以上山陽教会にいると、皆の友でいられなくなる、と思ったのでした。教会が大きくなるほど、友となった人々に寂しい思いをさせることになる。それよりは、次の体制を作ることができる優れた牧師をお招きし、私は別の町に住む友であり続けようと願ったのでした。
そして、神さまはそれを許してくださいました。私の見える範囲での思考よりも、もっともっと大きな神さまの計画があったわけですが、その一部にこんな心の動きがあったわけです。
友となることの誠実と、宣教の使命への誠実を、両方とも実現させるためには、牧師はどこかの段階で教会を離れることになるのではないでしょうか。
牧師は「友」となるべきです。そして、友であり続けるべきです。
牧師の働きは譲ることができます。しかし、友であることはやめることはできないのですね。
「友はどんなときにも愛するものだ。
兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」箴言17:17