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6/10礼拝説教「わが愛にとどまれ」ヨハネの手紙第1 2章26-29節/カオリンのレスポンスノート

· 今日の聖書

「わが愛にとどまれ」

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26 私はあなたがたを惑わす者たちについて、以上のことを書いてきました。

27 しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありませんから、あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。

28 さあ、子どもたち、キリストのうちにとどまりなさい。そうすれば、キリストが現れるとき、私たちは確信を持つことができ、来臨のときに御前で恥じることはありません。

29 あなたがたは、神が正しい方であると知っているなら、義を行う者もみな神から生まれたことが分かるはずです。

ヨハネの手紙 第一 2章26~29節

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 共にみことばを分かち合うができることを感謝します。

 

 私たちの周りには惑わそうとする働きがある。その惑わしとはイエス・キリストから私たちを遠ざけようとする力。それが悪魔の目的。

 人がキリストと結びつくならその時点で悪魔の負け。一度キリストに結びついた人をキリストから引き離すことは困難なこと。ただ、クリスチャンの心を惑わして、他の人が救われないように、これ以上救いが起こらないように、キリストから目を離させようとする働きをする。

 

 しかし私たちは悪魔に勝つことはたやすいこと。秘訣は、ただ「キリストを見ること」であり、キリストの愛の中にとどまること。それだけでいい。

 

 27節の注ぎの油は聖霊のこと。旧約時代に聖なるものに油を注ぐという習慣があった。その油として、聖霊が私たちに注がれている。イエス様を信じた人には聖霊が住んでくださっている。

 キリストが私たちのうちにいてくだり、キリストが教えてくださる。イエス様を見て、イエス様の言葉を受け入れるなら、「だれかに教えてもらう必要はありません」。なぜなら、神の霊がすべてのことについて教えてくださるから。神の霊はキリストから離れるような道には決して導かない。キリストの方へ、キリストの愛の中へ、よりイエス様と1つになることを導いてくださる。

 

 例え優れた指導者がいても、その人が素晴らしい人であったとしても、その人を見るのではなく、キリストを見て、聖書を読むこと。誰かの教えに縛られるのではなく、聖書のいうことを見つめる。

 

 キリストと私の間、また聖書と私の間に誰かを置いてはいけない。

 置いてしまうことで、それは邪魔になってしまう。

 聖書は自分で読むもの。

 もし、クリスチャンが自分の家で、祈りつつ、聖書を読み、聖霊からの語りかけがあったのなら、それこそが神さまとのやりとりである。

 牧師や教師は「聖書の読み方」を教え、必要な知識の伝達をする。たしかに知力を尽くして学ぶことも大事であるが、真理は知識ではなく、キリストが解き明かしてくださり、語りかけてくださるもの。

 神様ご自身が私に迫ってくださるのである。

 だから、誰からも教えられる必要はない。

 

 キリストだけを見つめる、そこに自由といのちがある。どんなに透明度が高いレンズでもやはり異物となる。そのレンズは置いてキリストだけを見つめよう。イエス様にすべてを明け渡そう。そこに本当の自由があり、愛の満たしがある。

 

 イエス様が願っている関係は、イエス様が私の中にとどまってくださり、私もキリストの愛の中にとどまっている。とどまりあう、幸いな関係。

 

 わが愛にとどまれと、イエス様ご自身がそう言ってくださる。私たちを愛してくださっているから、呼びかける。この愛は地上では見つけられない愛、神様の永遠の愛であり、すべてを犠牲にする十字架の愛である。イエス様は私たちを見捨てることはない。その愛の中にずっと、ずっといなさい。と招いてくださっている。

 

 救いは愛を知ることによって始まり、その愛を知り続ける生涯に導かれ、最後には顔と顔とでイエス様にお会いすることになる。私たちは最後にイエス様と会い、その愛が完全にわかる時がくる。

 

「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」

ヘブル人への手紙 12章2節

 

 イエス様は始まりであり、終わりである。

 

 イエス様と再会する時、気まずい思いをする人がいるようなことがあってはならない。「御前で恥じ入る」ということは、イエス様に会えない、恥ずかしくって身を退けるという意味にも取れる。もしもクリスチャンが正しくない心をもって生きることを選び続けるなら、終わりの日に、恥ずかしくて、御顔を避けることになってしまう。それは、イエス様を悲しませ続ける歩みであり、再会が悲しみとなる。

 正しくない心を持った1日1日であったことを、イエス様と会うときに思い知る。そんな歩みをクリスチャンはしてはならない。

 

 この恵みの招きを真剣に考えて受け入れよう。イエス様は愛に燃えて愛にとどまれと言っている。

 

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。」ヨハネの福音書 15章9節

 

 この「父が私を愛されたように」とは、完全な愛で愛してくださっているということ。決して見捨てない、寝ても覚めてもわが子を思う、命を差し出すほどの父の愛。

 「わたしの愛にとどまりなさい」というのは、イエス様からのお願いではなく、主のみことばであり、命令である。最高の命令と言えるだろう

 この命令の中に身を委ねていき、ずっととどまります!と喜んで応えていこう。

 キリストにとどまるなら、必ず良い実を結ぶから。

 

 神から生まれたものは義を行う。心の中にイエス様がいるとことばと行いは正しい。心にあるものが行いになる。心にあるものは口から出てきて、見えない本質は行動に出る。

 イエス様は実を結ぶ生涯を送らせたい願っている。そして、後の日にその良い実を共に喜ぶ日を待ち望んでいる。

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■コメント:

 イエス様の愛のなかにとどまり続ける人生。

 

 私もイエス様の愛を知り、クリスチャンになり、これからもっとそのイエス様の愛の深さを知り続けていくことができることをとても嬉しく思いました。

 だからこそ、いつもイエス様だけを見つめて、イエス様の愛にとどまり、愛を感じながら、イエス様の愛によって変えられ続けていく人生、そんな人生を歩みたいです。

 そう、強く思わされました。

 いつか顔と顔とでイエス様に会うときに、恥じ入ることがないように、イエス様だけを見つめていきたい、です。

 

 みことばを分かち合うことができたこと感謝します。