「いのちが御子の内にある」 ヨハネの手紙第一 5章6〜12節
聖書を土台としていくとき、教会は変わり続ける。
聖書のことばに信頼して、聖書のことばに従うとき、良い結果が得られる。それは当然のこと。なぜなら聖書が真実であり、イエス・キリストが真実であるから。イエス・キリストを信頼できることは幸いなことであり、キリストと共に過ごせることは私たちにとって喜びなのである。
イエス・キリストを信じる信仰があるなら、他に何も必要ない。
「この方は、水と血によって来られた方、イエス・キリストです。
水によるだけではなく、水と血によって来られました。
御霊はこのことを証しする方です。御霊は真理だからです。」
ヨハネの手紙 第一 5章6節
水だけではなく、血によって。そして御霊も。
この御霊=聖霊が証人となってくださる。
この箇所は様々な解釈があり、必ずしも「この箇所はこういう意味である」とははっきりと言えないが、水と血は旧約聖書の中で罪の赦しに用いられる。水とはきよめ、血は赦し。
イエス様のことばと行いを見たら何も罪もない。そして、イエス様は十字架に架かって、血を流して罪の身代わりになってくださった。
「水と血によって」とは、何一つ罪のない方が私たちのために、十字架で死んでくださったということではないだろうか、と思われる。
私たちを全く清め、赦してくださる。
イエス・キリストを信じ、信仰を与えてれるのが聖霊の働き。
イエス様を信じることは簡単なことではない。あまりにも、素晴らしすぎる知らせだから。
加えて、自分の心にある王座を明け渡すことができない頑なさが人間にはある。
それをわからせてくださり、信じ、信仰を与えてくださるのが聖霊。
「三つのものが証しをします。
御霊と水と血です。この三つは一致しています。」
ヨハネの手紙 第一 5章7~8節
イエス様の弟子たちはイエス様の事を身近で見ていた。イエス様の十字架の目撃もしていた。
聖霊が与えられた事で、この知識や経験、信仰が一つになった。
「私たちのためにイエス様は死んでくださった」ということを聖霊による信仰で確信をもった。
「信仰がある」ということは当たり前ではない。聖書がわかる、イエス様を信じれらるのは聖霊の働き。だから私たちは信じることができる。その信仰が「ある」か「ない」かで全てが変わってくる。信仰を持っていることを感謝すること。イエス様を信じているということは、私たちの喜びであり、イエス様の喜びである。
人の証しやメッセージで救われるわけではない、そこに働かれる聖霊の働きによって救われる。私を救ったのは神の霊の働きである。今もこの時、神様の前に集い、私たちの心を取り扱ってくださる。
「私たちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しはそれにまさるものです。
御子について証しされたことが、神の証しなのですから。」
ヨハネの手紙 第一 5章9節
人の証しや、教えに耳を傾けることも大事だけど、聖霊ご自身が語っているのかということが大事。神様との交わりに勝る平安はない。
神様に祈り、みことばを思い巡らす時、いつでも平安をいただく。これは信仰からくる平安。
私たちの心の罪のせいで聖書は見えにくい。しかし、信仰が与えられる時に私たちはわかる。
私たちの心にどんなに小さくても信仰があるなら、その信仰は絶対になくならない。
「神の御子を信じる者は、その証しを自分のうちに持っています。神を信じない者は、神を偽り者としています。神が御子について証しされた証言を信じていないからです。」
ヨハネの手紙 第一 5章10節
イエス・キリストが私たちを救うために来てくれた。聖霊によって私たちを呼びかけてくださる。「救いを得なさい」と迫ってくださる。
神様は私たちの心に聖霊によって、迫ってくださる。
いつでも心に確認したい。
イエス・キリストはあなたのために来られた。
イエス・キリストはあなたのために十字架で死なれた。
イエス・キリストはあなたのために罪を赦してくださった。
それは愛しているから。
この事を信じる人は永遠の命を持つ人。
「その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、
そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。」
ヨハネの手紙 第一 5章11節
イエス・キリストを信じる人は聖霊による証言。聖霊による証言とは、永遠の命が与えられているという証言があること。
それは聖書が証言していることである。死からいのちに移っているということ。
「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」
ヨハネの福音書 5章24節
素晴らしい約束。聖書が約束している。
私たちの行動も証拠になる。
「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。
兄弟を愛しているからです。
愛さない者は死のうちにとどまっています。」
ヨハネの手紙 第一 3章14節
自己中心な私なのに、教会の人を愛さないといけないと思うのは、キリストがいるから。これが死からいのちに移っているということ。
「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」
ヨハネの手紙 第一 5章12節
イエス・キリストを信じているから永遠の命がある。そして愛の生き方に変えられていく。
神様の前で静かに自分の心を見つめるとき、イエス様がいのちをかけてくださった十字架の愛を確認できる。
信仰は死んだ先も永遠に有効であり、最後の試練があった時に絶対的な力がある。
私たちはまず、信仰がある事を感謝しよう。愛されていること。赦されていること、永遠の命が与えられていることを感謝しよう。
そして、信仰があるなら、大胆に祈ろう。天のお父さんは私たちの祈りを受けとめ、叶えようとしてくださっている。
〈コメント〉
まず、神の霊により信仰が与えられた事を感謝します。私の信仰は人によって与えられたものではなく、神様によって与えられたものであると思う時、嬉しいし、心がとても平安になります。
「信仰があることは当たり前ではない」
私が与えられた信仰も当たり前ではない。そして、私の周りにいる人、友人に与えられている信仰も当たり前なんかではない。
いつも教会に来ていたら、目の前にいる人、隣にいる人がいることがどこか当たり前のように思えてしまうけれど、そうではなく、その人に信仰が与えられて、教会で共に礼拝を捧げ、イエス様を共に見つめることができていることは何にも変えられない喜びなんだよなー。って思わされました。
当たり前なんてどこにもないです。
今そうやって信仰が与えられていることに感謝ですが、まだイエス様を信じていない家族や友人や周りの方々に信仰が与えられる時、なんとも言えない幸せであり、喜びだと思わされます。
どんなに難しそうに思えても、どんなに時間がかかろうとも、たとえ諦めてしまいそうになるときがあったとしても、祈り続けること。
なぜなら、神様は私たちの祈りを受けとめ、叶えようとしてくださっているのだから。祈り続けることができますように。
天のお父様。
私に与えられている信仰に感謝します。
そして周りにいる方々にも神様が信仰を与えてくださった事を感謝します。そして、どうかあなたによって信仰が与えられる方がありますように。