「ことばや口先だけでなく」 ヨハネの手紙第一 3章11〜18節
「互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。」
ヨハネの手紙 第一 3章11節
初めから聞いている教え。それはイエス様が一番伝えたい教えのこと。イエス様は私たちを愛し合う人生へと導かれている。最初からの教えは最後まで大切。クリスチャンは「互いに愛し合う」という教えに生き続ける者。
罪の一つは、愛さないこと。
かつては罪のとりこであり、愛さない生き方をしていた。今でも愛さない生き方をしているのなら、今も罪のとりこである。
「カインのようになってはいけません。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。」
ヨハネの手紙 第一 3章12節
「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。
兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません。」
ヨハネの手紙 第一 3章14~15節
兄弟を憎むというのは、あからさまに攻撃する。軽んじる。退ける。無視する。見捨てるの意味が含まれている。
もし、心で兄弟を憎むなら、それは殺しているのと同じこと。愛のない思いが、結果的に殺している。その人がいなくなることを求めているから。人を軽んじ、憎むなら殺人の第一歩を踏んでるよ、とそうイエス様は言われる。
「愛がない」と「人を殺す」は同じこと。
さばくことは罪。私たちが人を裁く資格はない。裁くことで人は神様を敵に回す。なぜなら、神様はすべての人を愛されているから。
人が裁くということは、神様が愛されている人を裁くということ。
「他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。」
ローマ人への手紙 14章4節
私たち自身が誰かを裁き、軽んじ、悪だと決めつけるとき、神様のしもべを裁くということ。
「互いに愛し合いなさい」そう教えられたイエス様はそれを実践された。
みんな殺人者であり、この口でどれだけの人を傷つけ、裁いたのか。そんな私たちをイエス様は愛してくださった。
永遠の裁きを受けるべき私たちの罪を、イエス様が全部背負ってくださる。ここに愛がある。
「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」
ヨハネの手紙 第一 3章16節
イエス様の愛がわかると、人生の向きが変わる。イエス様の眼差しで生きることができる。人のいのちを奪う者ではなくて、差し出す者に変えられる。
「いのちを捨てるべきです」の「べきです」という直訳は「いのちを捨てるという負債がある。」愛の借金がある。私たちのために永遠のいのちを与えてくださった、その愛の借金があるということ。それは恵みの借金であり、与える生き方に変えられるということ。
与えること、いのちを差し出すことは当然の義務であるということ。
いのちを与えるのが当たり前。それはイエス様が私たちのためにいのちを与えてくださったから。人生の風向きはもうすでに変わった。
「兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。」ヨハネの手紙 第一 3章13節
「世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。」というのは、世の風向きとは逆に行くということ。あまりの清さのゆえに馬鹿にされ、憎まれることがある。でも、それでいい。
「この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。
子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。」
ヨハネの手紙 第一 3章17~18節
「心を閉ざしてはならない」と聖書はいう。
私たちの内にはイエス様が住んでいる。神様は私たちを見捨てなかった。それは私たちの内に住むイエス様も見捨てられなかった。
「あわれみ」というのは内臓、腹わたという意味。お腹の中で愛が叫ぶ。イエス様の声に従って、世とは逆向きの生き方をして行く。
ことばや口先の愛は世の中に溢れている。しかし、イエス様はことばでも行いでも愛していてくださる。
主の風に生きるなら、どこまででも真っ直ぐに生きることができる。
古い生き方をせず、これからは与える生き方を、互いに愛し合う生き方をさせてください、そう祈ることが大切。
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《コメント》
みことばを共に愛する兄弟姉妹と分かち合えたこと、感謝します。
イエス様は見捨てられないお方。本当にそう感じます。
無牧であった一年間もイエス様は私を見捨てられなかった。何度も何度も「教会に行くのをいつやめようか」と考えていましたが、でも「イエス様からもらったこのいのちを無駄にしたくない」と思う自分もいました。
もう、古い生き方には戻れません。いえ、戻りたくはないです。だからこそ、イエス様がいのちを差し出し与えてくださったこのいのちを、私もイエス様のように差し出すものへと変えられていきたい。
過去のことは過去のこと。
過去に囚われるものではなくて、
私もその過去から一歩進んで、主の風によって、真っ直ぐ生きるものへと変えられていきたい。そう強く、思います。
愛する兄弟姉妹。
そんな大事な存在のお一人お一人と共に、礼拝を捧げ、聖餐を受け、伝道コンサートをすることができたことを感謝します。
この新しい1週間をイエス様の愛によって満たされて、互いに愛し合う者へと変え続けてくださいますように。