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7/1礼拝説教「ことばや口先だけでなく」ヨハネの手紙第1 3章11-18節/カオリンのレスポンスノート

吉備教会の青年による、まとめとコメントです。

· 今日の聖書

「ことばや口先だけでなく」 ヨハネの手紙第一 3章11〜18節

 

「互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。」
ヨハネの手紙 第一 3章11節

 

 初めから聞いている教え。それはイエス様が一番伝えたい教えのこと。イエス様は私たちを愛し合う人生へと導かれている。最初からの教えは最後まで大切。クリスチャンは「互いに愛し合う」という教えに生き続ける者。

 罪の一つは、愛さないこと。
 かつては罪のとりこであり、愛さない生き方をしていた。今でも愛さない生き方をしているのなら、今も罪のとりこである。

 

「カインのようになってはいけません。彼は悪い者から出た者で、自分の兄弟を殺しました。なぜ殺したのでしょうか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。」
ヨハネの手紙 第一 3章12節

 

「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。
兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません。」
ヨハネの手紙 第一 3章14~15節

 

 兄弟を憎むというのは、あからさまに攻撃する。軽んじる。退ける。無視する。見捨てるの意味が含まれている。
 もし、心で兄弟を憎むなら、それは殺しているのと同じこと。愛のない思いが、結果的に殺している。その人がいなくなることを求めているから。人を軽んじ、憎むなら殺人の第一歩を踏んでるよ、とそうイエス様は言われる。

 

 「愛がない」と「人を殺す」は同じこと。
 さばくことは罪。私たちが人を裁く資格はない。裁くことで人は神様を敵に回す。なぜなら、神様はすべての人を愛されているから。
 人が裁くということは、神様が愛されている人を裁くということ。

 

「他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。」
ローマ人への手紙 14章4節

 

 私たち自身が誰かを裁き、軽んじ、悪だと決めつけるとき、神様のしもべを裁くということ。
 「互いに愛し合いなさい」そう教えられたイエス様はそれを実践された。
 みんな殺人者であり、この口でどれだけの人を傷つけ、裁いたのか。そんな私たちをイエス様は愛してくださった。
 永遠の裁きを受けるべき私たちの罪を、イエス様が全部背負ってくださる。ここに愛がある。
 

「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」
ヨハネの手紙 第一 3章16節

 

 イエス様の愛がわかると、人生の向きが変わる。イエス様の眼差しで生きることができる。人のいのちを奪う者ではなくて、差し出す者に変えられる。
 「いのちを捨てるべきです」の「べきです」という直訳は「いのちを捨てるという負債がある。」愛の借金がある。私たちのために永遠のいのちを与えてくださった、その愛の借金があるということ。それは恵みの借金であり、与える生き方に変えられるということ。

 与えること、いのちを差し出すことは当然の義務であるということ。
 いのちを与えるのが当たり前。それはイエス様が私たちのためにいのちを与えてくださったから。人生の風向きはもうすでに変わった。


「兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。」ヨハネの手紙 第一 3章13節

 「世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。」というのは、世の風向きとは逆に行くということ。あまりの清さのゆえに馬鹿にされ、憎まれることがある。でも、それでいい。


「この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。
子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。」
ヨハネの手紙 第一 3章17~18節

 

 「心を閉ざしてはならない」と聖書はいう。
 私たちの内にはイエス様が住んでいる。神様は私たちを見捨てなかった。それは私たちの内に住むイエス様も見捨てられなかった。

 「あわれみ」というのは内臓、腹わたという意味。お腹の中で愛が叫ぶ。イエス様の声に従って、世とは逆向きの生き方をして行く。
 ことばや口先の愛は世の中に溢れている。しかし、イエス様はことばでも行いでも愛していてくださる。
 主の風に生きるなら、どこまででも真っ直ぐに生きることができる。
 古い生き方をせず、これからは与える生き方を、互いに愛し合う生き方をさせてください、そう祈ることが大切。

 

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《コメント》
 みことばを共に愛する兄弟姉妹と分かち合えたこと、感謝します。

 イエス様は見捨てられないお方。本当にそう感じます。
 無牧であった一年間もイエス様は私を見捨てられなかった。何度も何度も「教会に行くのをいつやめようか」と考えていましたが、でも「イエス様からもらったこのいのちを無駄にしたくない」と思う自分もいました。
 もう、古い生き方には戻れません。いえ、戻りたくはないです。だからこそ、イエス様がいのちを差し出し与えてくださったこのいのちを、私もイエス様のように差し出すものへと変えられていきたい。

 過去のことは過去のこと。
 過去に囚われるものではなくて、
 私もその過去から一歩進んで、主の風によって、真っ直ぐ生きるものへと変えられていきたい。そう強く、思います。

 愛する兄弟姉妹。
 そんな大事な存在のお一人お一人と共に、礼拝を捧げ、聖餐を受け、伝道コンサートをすることができたことを感謝します。
 この新しい1週間をイエス様の愛によって満たされて、互いに愛し合う者へと変え続けてくださいますように。