「初めの愛」
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第1ヨハネ2章18〜25節
18 幼子たち、今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であると分かります。
19 彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです。もし仲間であったなら、私たちのもとに、とどまっていたでしょう。しかし、出て行ったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明らかにされるためだったのです。
20 あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、みな真理を知っています。
21 私がこのように書いてきたのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知っているからです。また、偽りはすべて、真理から出ていないからです。
22 偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否定する者、それが反キリストです。
23 だれでも御子を否定する者は御父を持たず、御子を告白する者は御父も持っているのです。
24 あなたがたは、初めから聞いていることを自分のうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いていることがとどまっているなら、あなたがたも御子と御父のうちにとどまります。
25 これこそ、御子が私たちに約束してくださったもの、永遠のいのちです。
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今日のみことばを感謝します。
だれでもイエス様を信じるなら、永遠の命を得ることができる。だからこそ、サタン(悪魔)はそのイエス様を否定しようとする。あの手、この手でイエス様から引き離そうとする。それは反キリストである。
世界の終わりが近づくにつれ、反キリストが増え、様々な教えや働きがあり、反キリストなのにも関わらず、自らを「キリスト教」といい、聖書の一部を取り上げているものもある。
異端というものは、教会に属していた人たちから始まっている。このヨハネの手紙を書いていたその時代にも、異端・反キリストがいた。
私たちが今生きてる時代にも、素晴らしいものが世に出回ったら、偽物が必ず現れてくる。
それと同じように偽物である異端・反キリストが現れた。
しかし、私たちにとって、真理と反キリストを見分けることは難しいことではない。
まず、結果でわかるということ。
神様の光の中で交わりを持つはずなのに、交りが生まれず、愛し合うことができない。
それは、神様の子どもになっていなかったから。そこにある自己中心的な思いは、悪い結果を生み出す。
次に、見分ける力が与えられていること。
「聖なる方からの注ぎの油」(20節)である聖霊がいてくださる。そこには絶対的な恵みがある。
聖霊が与える違和感、これは違うな、と思うことを大切にする。
私たちのうちにおられる聖霊が見分けてくださるので、私たちは誰からも教えられる必要はない。なぜなら、私のうちに真理があるから。
聖霊の与える感覚は祈りとみことばによって強められていく。祈ることでいつでも神様との交わりが持てるし、聖書によってはっきりとみことばが示される。
すなわち「聖霊と祈りと聖書」によって、私たちは主の御心を知ることができる。何が正しくて、何が間違っているのかがはっきりとわかるということ。
祈ること、聖書を読むことを大切にしたい。
感情や人間関係などが私たちを邪魔をするが、私たちはキリストにあって正しい歩みをすることができ、サタンに打ち勝つことができる。
イエス・キリストは否定するけれど、天の父である神様を信じているということはありえない。
イエス様の十字架を信じなければ救いはない。神の子である方が全き身代わりになってくれたからこそ、私たちに今、救いがある。
イエス様が「わたしを見たものは父も見た」と言われたように、イエス様の十字架を信じるなら、聖書がわかるようになる。
イエス様の愛、正しさ、力強さを知る時に神様を知ることができる。
天の父とイエス様が同じ人柄であること、聖書を通してイエス様を知ることで、神様のことをより知ることができることに感謝します。
「御子を告白する者は御父も持っている」
告白ということばは「信じる」よりも強いことば。「私はイエス様を救い主として信じます」とことばで信仰を表明していく。そうやって口で信仰を表す時、永遠の約束をいただくことができる。
サタンがどういざなおうとも、キリストの愛から私たちを奪い去ることはできない。
初めに聞いたこと、福音の大切さ。
初めに聞いたことが最後まで私たちを救ってくださる。初めのことばを心にとどめるなら、その人は主との交わりにとどまる。
イエス様が私たちのために死んでくださったその愛は、いつまでも変わることはない。
大変な約束を私たちはもらい、最初の愛が最後まで私たちを救い続ける。イエス様ご自身が私たちに与えてくださった約束、永遠のいのち、
それには保証がある。
初めの愛にとどまる。そして感謝し続ける。
初めから聞いたこと、共に味わい続ける。
私も吉備の人たちと共に味わいたい。
この四月から吉備教会も変化をし続けております。そんな中でどこか、教会に行くたんびに「ここは私が行っていた教会だろうか」と思うことがありました。前とは違う現実を受け入れることのできていない自分にそこで初めて気づきました。
でも、今日のメッセージを聞いて、イエス様の愛は初めから何も変わっていないということを改めてと思わされました。
前も今もイエス様の愛は変わらないということです。
私はこの教会にいて、この教会で礼拝を捧げていて、この教会の一員で、大事な人たちがいるこの教会で、この吉備教会の人たちと共に、初めから聞いているその愛にとどまり続けたいと
心から思いました。
何も着飾らなくていい、なにもしなくていい、ただただイエス様の愛の中に共にとどまり続けたい。
今日も愛する兄弟姉妹と共に主を見上げ、礼拝を捧げることができたことに感謝します。
一人一人がこの1週間も主と共に歩み、初めから聞いているその愛の中に共にとどまることができますように。