「神の子の体質」 ヨハネの手紙第一 3章4〜10節
「罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです。」
第1ヨハネ3:4
罪とは律法に逆らうこと。それはみことばに逆らうということ。罪をはかるものさしはみことば。私たちが持っている心のものさしはいい加減なものであり、相手によって緩くなったり、厳しくなったりもする。また自分には甘く、人には厳しいということもある。
でも、みことばは変わらない。みことばは真理のものさしだから。みことばは私たちの心の中までも問い、善と悪を切り分ける。
みことばの光に照らされ、みことばに導かれるなら、滅びずに生きていくことができる。十字架のイエス・キリストの救いを得、イエス・キリストと共に生きること。ここに救いがあり、守りがある。
「あなたがたが知っているとおり、キリストは罪を取り除くために現れたのであり、この方のうちに罪はありません。
キリストにとどまる者はだれも、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見たこともなく、知ってもいません。」
第1ヨハネ3:5.6
イエス様は罪と対局のお方。
罪から私たちを救うために生きた。この地上に、一点の罪もない方がいてくださったということは私達の希望である。イエス・キリストを信じた私たちは「キリストに属する者=クリスチャン」である。
私たちがキリストにとどまるのなら、罪を犯さない。罪を犯す時はイエス様から目を離すとき。私たちの戦いの秘訣はイエス様の愛にとどまること。
「幼子たち、だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しい方であるように、正しい人です。」第1ヨハネ3:7
聖書で正しさを表す「義」ということばの意味。それは、神様とみことばを照らしてピッタリ合っている、ということ。
神様が喜ばれないことは罪である。でも、私たちには神様とみことばがある。
義を行うことは、神とそのみことばに即しているということ。
「だれにも惑わされてはいけません」と書いてあるが、人は自分で自分を惑わすことができる。
自分を惑わすことなく、この罪の世界の中でキリストが喜ばれると生き方をキリストと共に生きよう。
「罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました。」第1ヨハネ3:8
罪を犯している者は、悪魔のしもべである。しかし、イエス・キリストは人となってこの地上に来られ、イエス様によって自由が与えられた。
イエス様は一切の罪を犯すことなく、清いままで十字架にかかってくださり、愛によって完全な勝利をしてくださった。私たちを愛によって、今すでに神の子どもとしてくださった。私たちは罪から解放させられて、神の子どもとして変えられ続けていく。
「神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」第1ヨハネ3:9
「だれも、罪を犯しません」という言葉は、「罪を犯せません」ということ。。
神様から生まれたものは神様からの本質がある。聖霊様が私たちの心のうちに来てくださったことにより、新しい体質を頂いた。罪を犯すことはできない、罪を生理的に受け付けない、そういう違和感を覚えることがある。
自分では耐えられず、罪が痛くてたまらない。
私たちはもともと罪人であったが、その罪から離れて清さに向かい変えられ続ける。そのことによって私たちはさらに変えられていく。
神の子とされた者は、神の体質に変えられ、罪を犯すことができなくなる。
「このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義を行わない者はだれであれ、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。」第1ヨハネ3:10
もしも、罪を犯し、人を傷つけ、罪を犯し続けて、平気でいる者がいるのなら、まだその人は救われていない。
私たちは、神の子どもとされた兄弟を愛さないわけにはいけない。神のこの体質を頂いた以上、愛せなければそこには心の平安はない。
私たちが罪から解放されるためにイエス様は十字架にかかってくださった。心のうめきを隠さずに悔い改めて平安を得よう。
今日のみことばによって、「叱られている」と思うのなら、それは恵み。イエス様の愛の叱責。愛しているからこそ叱ってくださる。自由にしたくて、自分をごまかすことも、人の顔色を伺うことも、怒りに我を忘れることも、もう二度とさせたくなくて、イエス・キリストに似る歩みをどうしてもさせたくて、みことばは心を刺す。それが主の愛であるということ。
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コメント:
とても厳しいとも思えるけれども、とても大事なところだよなと思わされました。
私たちは罪人であり、罪を犯してしまう者。
でもだからといって、罪を犯してしまうことを当たり前のように思ってしまってはいけないんじゃないのかな、とも思わされました。
罪人だから仕方がないではなくて、私たちの罪のために血が流され、命が捧げられ、その十字架の死によって私たちを罪から解放してくださったイエス様がいるということをいつも覚えておきたい、と思わされました。
この用意された罪からの解放は、当たり前にあるものじゃない。当たり前なんかどこにもない。そう感じます。
イエス様が私たちにしてくださったその重み、それを感じることができることを嬉しく思います。
共にみことばを分かち合えること感謝します。
今週も愛するお一人お一人が守られていますように。