教会の青年カオリンが、昨日の説教のレスポンスメモを送ってくれましたよ。
ーーーーーーー
第1ヨハネ2:7-11
7 愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、 みことばのことです。
8 しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。これはキリストにおいて真理であり、あなたがたにとっても真理です。なぜなら、やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。
9 光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。
10 兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。
11 兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。 やみが彼の目を見えなくしたからです。
メモ:
「互いに愛し合いなさい」とイエス様が与えてくださった戒め。その命令のことをヨハネは示してくれている。
「互いに愛する」ということは、難しくも思う。
でも、イエス様がそれをしてくださった。イエス様は愛に生きて、愛に生き切れない私たちのために十字架にかかってくださった。このイエス様によって、古い命令が新しい命令に、つまり実行可能な命令となった。それをイエスさまとともに見つめることができる、ということはとても感謝なことですね。
イエスさまの光の中なら、信仰の友を憎むことはできない。軽んじることも、大事にしないこともない。
私が愛せない人でさえも、イエスさまはその人を愛されて、その人のために十字架にかかってくださった。私も神の娘であるけれど、その人も神の息子であり、神の娘。愛するということしか選択肢がない。
ある意味とても厳しいことばにも思える。けれども、愛するということしか選択肢がないってことは私にとって嬉しいことでした。
憎まなくていい人生。愛するということしか選択肢がない人生。それってすごく嬉しいこと。そして、気持ちがとても楽になりました。
私自身は愛の足らない者。
でも、それでもそんな愛の足らない者のためにイエスさまは十字架にかかってくださった。
愛せない自分に気づいたら、イエス様のもとにすぐに行くこと。
私自身は愛の足らない者だけれども、イエス様の愛によって満たされて、愛のある者へと変え続けていただきたいなと思いました。
いつもイエス様と交わり、イエス様のその光の中で生きていきたい。