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T兄を看取る

· いい一日でした

 昨夜は病室で日付が変わりました。

 病室で讃美を歌い、またみことば読ませていただきました。

 T兄の呼吸はしだいにゆっくりとなり、そして止まりました。

 彼は、私を生み、育ててくれた父でもありました。

 この春、彼が籍を持つ吉備教会に着任することによって、私は彼の牧師となりました。

 でも、その前から彼は私の説教の熱心な聴衆でした。毎週の礼拝説教をネットで欠かさず聴いてくれていました。また闘病生活に入ってからは、何年分もの説教録音を、眠れぬ夜の安定剤のようにひたすら聴いていました。

 ずっと昔は、キリスト教に対しては否定的な発言もありました。

 私が牧師になるときは、ずいぶんと反対もされました。

 「祈って飯が食えるか!」と言われたこともありました。

 「そこまで牧師になりたいんか」と詰問されたとき、「なりたいんじゃない、ならんといけんのんよ」と言うと、最後は「好きにせい」と許可?してくれました。

 でも、やはり私は牧師になって良かったと思うのです。

 彼は後にクリスチャンになりましたし、最後の年月に彼を支えたのは、やはり聖書のことばだったからです。

 最後の数ヶ月、私は吉備教会に着任することによって、彼の牧師にならせていただけましたし、今夜と明日の司式もさせていただけます。

 ただ、感謝なのです。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。

 神はまた、人の心に永遠を与えられた。

 しかし人は、神が行われるみわざを、

 初めから終わりまで見きわめることができない。」

   伝道者の書3:11