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9/30礼拝説教「いのちをもたらす祈り」ヨハネの手紙第1 5章16-17節/カオリンのレスポンスノート

吉備教会の青年による、まとめとコメントです。

· 今日の聖書

「いのちをもたらす祈り」ヨハネの手紙 第一 5章16-17節

 聖書に出てくる信仰者の共通点は祈り。祈りの人であるということ。
 イエス様も祈りの人である。
 それは私たちの模範である。そういう祈りの人たちがたくさん聖書には出てくる。

 信仰者の多くの祈りはとりなしの祈り。誰かのための祈り。
 

 なぜ信仰者たちは人々のために諦めないで祈ったのか。一つは、神様が祈りを聞いてくださるから。もう一つは、とりなしの祈りは神様の御心の祈りだから。御心の祈りというのはとりなしの祈りということ。

「私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。」ヨハネの手紙 第一 5章15節

 信仰者は神様の御心を思うときに、とりなしの祈りをするようになる。その祈りによってどれほどの人が守られ、助けられるのか。
 今も全世界のクリスチャンは祈り続けている。
 多くの祈りの中に私たちはいる。

 最高の奉仕は祈りの奉仕だと知った人は、祈らずにはいられない。

 祈りはなぜ最高の奉仕なのか。ポイントは「祈りはいのちをもたらす」から。

「だれでも、兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば、神はその人にいのちを与えてくださいます。これは、死に至らない罪を犯している人たちの場合です。しかし、死に至る罪があります。これについては、願うようにとは言いません。」
ヨハネの手紙 第一 5章16節

 「兄弟が」と書かれているので、教会の中のことを考えている。
 罪とは不義であり、みことばに反すること。
 みことばに反することをしている人がいるなら「その人のために祈りなさい」ということ。
 裁くのでもなく、見て見ぬ振りをするのでもない。愛は不正を喜ばずに、真理を喜ぶから。
 みことばに反することをしている人を見たら、心を痛めて祈る。
 「神に求めなさい」の直訳は「彼は神に求めるだろう。」当然求めるでしょう、という意味。
 それに続いて「彼はその人にいのちを与えるだろう」と言っている。
 いのちを与えるというのは祈り手のこと。
 原文だけだと、いのちをもたらすのが祈り手なのか、神様なのかわからなくなる。
 

 これは、祈り手と神様の共同作業であると言える。誰かがその人のために祈るとき、祈り手と神様が共同作業をするということ。
 罪を犯している友のために、祈ることでいのちを与える働きをする、ということ。

 とりなしの祈り。それは凄まじい平和の武器。
 呟くことなく、その人のために祈る。
 

 愛することは祈ること。愛し合うことは互いに祈り合うこと。イエス様は祈り続ける方。
 今も天でとりなし続けてくださっている。

「だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。」ローマ人への手紙 8章34節

 私たちの罪は今日も赦される。赦され続ける。
 なぜなら、イエス様がとりなし続けているから。
 十字架の愛は全き愛のまま変わらない。十字架にかかられた時の愛に変わらず、今私たちは愛されている。
 それが私たちの恵みであり、約束である。

 

「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」ヨハネの手紙 第一 1章7節

 

 私たちは光の中で祈り合い、愛し合い、清められ続けるために集められた。
 一歩目は祈り合うこと。祈りから始める。
 愛することは祈ること。祈りはいのちをもたらす。

 

 「死に至らない罪」とは、ほとんどの罪は死に至らない罪。その罪は、イエス様の十字架によって赦されたから。
 では、「死に至る罪」というのはなんなのか。
 

 1つ目は聖霊を汚すこと。
「しかし聖霊を冒瀆する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」
マルコの福音書 3章29節

 

2つ目は十字架の救いを知ったが、自分の意思で救いを捨てること。
「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、
神のすばらしいみことばと、来たるべき世の力を味わったうえで、
堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。」
ヘブル人への手紙 6章4~6節

 

3つ目は反キリスト。キリストを否定すること。
「幼子たち、今は終わりの時です。反キリストが来るとあなたがたが聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であると分かります。」
ヨハネの手紙 第一 2章18節

 

 この三点がある。
 一言で言うなら、キリストを見ながら、聞きながら、知りながら、キリストを捨てる人は救いようがない。
 知らないでキリストを反対しているならば知ればいい。でもキリストを知っているのに反対しているなら救えない。
 

 全ての罪は、悔い改めをすれば赦される。
 私たちは今日も赦されて御前に出ている。

 今日のみことばにあるように、いのちを与える祈り手になれるように祈る。
 弱っている人、神様の前に祈れない人がいるのではないか、私たちはその人のために祈る。

 祈りが友を変え、私自身を変える。
 

 互いに祈り合える教会になるとき、自分で立つ教会になる。受ける教会から、祈り合う教会になる。
 「祈りはいのちを与えるもの」
 神様は私たち一人一人の祈りを用いてくださる。私たちとともに御心を勧めようとしている。
 

 愛は祈り。愛によっていのちをもたらしていく。イエス様は今日でも祈っている。イエス様とともに祈りの歩みをしていく。


〈コメント〉
 今日のみことばを感謝です。
 私が今、こうして教会に来ることが出来ていることは多くの方々の祈りがあるからこそ、ここにいます。祈りによって支えられ、今度は私が祈るものへと変えられていきたい。
 愛することは祈ること。愛し合うことは祈り合うこと。
 呟くことをするのではなく、見て見ぬ振りをするのではなく祈ることから始めていく。
祈ることから始めて、今度は一緒に祈り合うことができるのであれば、それはとてもとても嬉しいことです。
 そうなりたいです。
 イエス様は今でもとりなし、祈り続けてくださっているから。私が諦めてしまいそうになったときは、イエス様が祈っててくださる。だからとても安心です。

 私もイエス様とともにとりなし、祈り続ける者とさせてくださいますように。

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