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7/29礼拝説教「キリストを表す人たち 2」ヨハネの手紙第1 4章7-12節/カオリンのレスポンスノート

吉備教会の青年による、まとめとコメントです。

· 今日の聖書

「キリストを表す人たち」

 聖書は私たちに「愛し合うこと」を語る。この語りかけ自体も神の愛に根ざしている。「愛し合いなさい」というのをヨハネは強調しているが、それは、イエス様が大切にしている命令だから。
 「神様と共に生きる」ということと「愛の命令に生きること」は同じである。
 なぜなら、神様は愛の方だから。

「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。
 愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。」
  ヨハネの手紙 第一 4章7~8節

 キリストの愛が私たちを生み、キリストの愛が私たちを育てる。大切な公式がここにある。

 ①私たちは神の子である。

 ②神様は愛である。

 ゆえに

 ③私たちは愛の子である。
 

 神=愛なのであれば、神の子=愛の子である。

 私たちは愛の子であり、愛の民であり、愛の教会。クリスチャンが愛に生きるのは、必然であり、本質である。
 神と共に生きていながら、愛に生きないのは病んでいる、二心であるということをヨハネは言っている。もしそうなら、全力で脱出して平安を得るように、と。
 しかし、どうやって脱出するか。
 それは、イエス様の十字架を思い起こし、イエス様のもとに逃げること。
 イエス様に洗いざらい告白をし、自由と平安を得よと言っている。
 それが決定的な解決策。

 十字架は愛の証拠。イエス様は私たちのために十字架にかかり、愛を示し続けてくださっている。イエス様は私たちに対する愛を十字架で示してくださった。ここに恵みがあり、いのちがある。

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
  ヨハネの手紙 第一 4章9~10節

「私たちにいのちを得させてくださいました」とあるように、イエス様は私たちが生きるために死んでくださった。だから私たちはイエス様の十字架によって、いつだって新しく生きることができる。

 私たちは「なんで私には愛がないのか」と思う。それは罪の現実。イエス様は全てをご存知で、だからこそ来てくださった。
 今もイエス様は私たちと共におられる。
 イエス様がいるということは、ここに愛があるということ。

 時に私たちは自分にこだわり、自分を見すぎてしまう。イエス様はそんな時に「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」そう言ってくださる。
 私たちは愛のない自分を責めるが、イエス様は「わたしはあなたとともにいる」「わたしの愛の中にあなたを置きなさい」と言ってくださる。

 私たちは自分を見るのではなく、イエス様を見なくては愛の実を結ぶことはできない。イエス様は今日も明日もいてくれて造り変えてくださる。

「あなたの神、主は、あなたのただ中にあって救いの勇士だ。

 主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる」

 ゼパニヤ書 3章17節

 神様が愛の勇士、救いの勇士としてここにいてくださる。私たちは愛を探しに行く必要ない。ここにおられる。

 そして、聖霊の風が愛の方向へと私たちを連れて行き、導いてくださる。

 愛さない生き方は、神様に立ち向かうこと。


「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。
 いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」
  ヨハネの手紙 第一 4章11~12節


 イエス様に愛されていることを知っておきながら、人を愛さないことできない。
 愛し合うべきの「べき」という意味は借金があるということ。それ以外の選択はできない。
 愛し合わない生き方はない。

 歯を食いしばって無理やり愛することではない。言葉や口先で愛することでもない。
 イエス様とともに生きるなら愛の実は自然に結ばれる。自分を見るのではなく、イエス様を見ること。イエス様がなんと言われているのかを聞くこと。そうすることで確実に実を結んでいく。

 私たちにはキリストを表すという使命がある。神様は目に見えない。キリストを見せるというのは、教会が愛し合うこと。私たちは愛し合うために選ばれた。家族や友達を教会に招くなら、私たちはまず、熱心に愛し合うこと。そのことが大切。

 言葉や口先ではなく、十字架のキリストの前で一人一人が取り扱われ、教会が愛し合う。

 「神の愛が私たちのうちに全うされる(=完成される)」ということ。
 イエス様は十字架にかかった時に「完了した」と言われたが、完成するのはまだ。それは教会が愛し合うこと。
 私たちの内で、愛が叫んでいる。私たちが聖霊に導かれ、私たちの内で愛なるキリストが全うされるのを待っている。

 私たちが愛によって一つになる時、この町の光となっていく。

 私たちはどうしたらいいのか。
 心で働くキリストの愛をどうしたら行動に移せるのか。
 それは「祈り」。
 祈りの内容で大切なポイントが2つある。1つ目は愛せない罪の告白。悔い改めをし、愛に生きる決断をしていくこと。2つ目は相手のための祝福を祈ること。傷つけられた、また、意見の合わない人のために祈る。

 そう祈るときに愛し合う一歩が始まっている。


《コメント》

 みことばを感謝します。
 今日吉備のみなさんと礼拝を捧げることができたことを感謝します。

 私は時に自分を見つめてしまうことがあって、なんで愛せないんだろう。なんでこんな風に出来ないんだろう。と自分を責めてしまいます。
 私自身からは何も出てくることはないのに、自分で自分を求めてしまいます。
 でも、そんなときはイエス様を見つめたらいい。イエス様の愛の中に私自身をおく。そのことが大切なんだな、と思いました。

 イエス様を見つめ、イエス様の愛の中に私自身をおくときに自然と実を結ぶものになる。
 だから、私がすることはイエス様を見つめるだけでいいのだなと思えました。

 また、私がこう思うからとか、あの人がこう言うからではなく、イエス様が今、私に何を語られているのか。神様のみこころを求めながら生きていく。いつもそうでありたいです。

 聖霊は私をいつも愛の方向へと導いてくれる、だからもう安心してゆだねていこうと思います。
 言葉や口先でなく、心から愛しあう群れになりますように。聖霊が愛の方向へと導いてくださるのだから、私は、愛し合う群れになるということを信じます。

 吉備教会の方々と礼拝を捧げることができて、感謝します。
 私はこの教会の人たちと共に、主のみこころを求めていきたい。

 

 愛し合う群れになっていきたい。